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卒業生の今とあの頃(25)国際コミュニケーション学科卒業 阿部裕紀子さん

ー明星大学卒業生の「今」と「あの頃(在学当時)」を写真とコメントで綴りますー

阿部 裕紀子〈Yukiko Abe〉
2013年3月 人文学部 国際コミュニケーション学科 卒業
現在の職業:仙台育英学園高等学校勤務
出身地:宮城県富谷市
好きな競技:スノーボード、ライフル射撃
好きな言葉:「やれる事」より「やりたい事」

異文化交流を味わいつくした学生時代。
母校でライフル射撃部の監督をしている今。
そしてこの夏、国際審判として迎えた東京2020オリンピック・パラリンピック。

(ここからは阿部さんに寄稿いただいた手記を、そのままの文体でお届けします)

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紫と白で統一された壁、首を反らさないと見上げることができないほど高い天井、そこから吊るされた無数のスポットライトのきらびやかさ。
私は、オリンピック・パラリンピックの決勝会場に立ち、鳥肌が立った。

私の職場は、宮城県にある仙台育英学園高等学校。
母校であるこの高校で、ライフル射撃部の監督をしている。

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私の学生時代は、一言でいえば「異文化交流」だった。
地方の小さな町の出身の私からしたら、日野・八王子は都会だったし、大学の友達はみんな都会っ子に思えた。正直、関東在住の女の子はみんなギャルだなと、入学当初は思っていた。
国際コミュニケーション学科は、ハーフだとか両親が外国人だとか、多くのアイデンティティを持った学生が多い。その分、考え方も価値観も十人十色で、主張が強い学生が多いように思える。それは一見、まとまりがつかないように聞こえるだろう。実際、まとまりがつかない経験が多かった。しかし、たくさんの価値観をぶつけあうことで、そこから生まれる発想もあった。

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私が所属していたのは、菊地ゼミ。
アフリカについて研究をしているゼミだ。もともと私はアフリカに興味を抱いてこのゼミを選択したわけではなく、同じ東北出身の菊地先生のまったりとした人柄に引き寄せられたのだ。(というと聞こえはいいのだが、正直なところ、他のゼミの先生方のキャラが強烈すぎて、一番安心感を感じた菊地ゼミを選んだ)

大学3年の終わり頃、卒論のテーマが「日本人とアフリカの人々の幸福度の違い」に決まったものの、たくさんの文献を読んでもピンとくるものがない。そのことを菊地先生に相談すると、「じゃあさ、アフリカに行ってみたら?阿部さん自身で探したらいいよ」と軽い感じで言われたことを今でも忘れない。

翌年の4年生。ほとんど1年生ばかりのフィールドワークの講義を、私は受講していた。
その講義では、アフリカのタンザニア(ザンジバル島)を訪れる。教授はもちろん菊地先生だ。
入学したばかりのギャルたち(偏見ではなく本当にギャル)と共に準備をし、言い争いをしたこともあった。しかし時間が経つにつれ、年齢や見た目の違いなど関係なく、とても仲良くなった。彼女たちがタメ語を使うことが気にならないほどに。

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2週間滞在したアフリカでは多くの出会いがあった。その中でも特に印象に残っている出会いがある。
当時20歳のシャバニという青年との出会いだ。シャバニは道端でサングラスを売りながら、英語の教科書を読んでいた。
彼はサングラスを売ったお金で、週2回学校に通い授業を受けているという。
そんな彼が「僕は英語の勉強をしているんだ。だから話し相手になってほしい」と、素敵な笑顔で話しかけてきた。

彼の持つ英語の教科書は、日本でいうところの中学二年生レベルの教科書だ。私たちは、英語とスワヒリ語を交えながら何時間も路上で語り合った。
彼はとても気さくで、日本のことや私が旅してきた外国のことを知りたがった。いつか海外旅行することが、彼の夢だと教えてくれた。

私が日本に帰る前の日、私は再びシャバニのもとを訪ねた。彼は真っ白い歯が印象的な笑顔で、私との最後の時間を楽しそうに過ごしてくれた。お互いの話をしながら、私が「シャバニは今幸せ?」と尋ねると、彼はこう答えた。

「毎日町中にコーヒーの香りがして、ここには素敵な道がある。ここに座っていれば、多くの出会いもある、こんな風にね。これ以上に幸せなことってある?」

それまでの私は「幸せ」とは、好きなものを食べられることや、自由に旅行ができることのように、「ちょっと贅沢できること」だと思っていた。
彼の言葉は、私の研究におおきなヒントを与えるだけでなく、今日までの私の価値観にまでも大きな影響を与えている。

生まれて初めて行ったアフリカやそこでの人々との出会いは、私の卒論に大きな影響を与えてくれた。また、その時間を共有したギャルたちとの時間は、私の大学生活で一番楽しい講義の時間でもあった。もう一度大学生に戻れるとしたら、必ずフィールドワークの講義に参加したいと今でも思う。

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卒業を控えた大学4年の冬、私は地元宮城に帰ることに決めていた。

「やれる事」より「やりたい事」、これが私のモットーだ。だから大学時代も全力で「やりたい事」に打ち込んできた。

そんな私が学生時代に唯一「やれる事は何だろう」と考えたことがある。それは、東日本大震災に襲われた地元宮城への想いだった。

もともと卒業後は地元に戻るつもりはなかった。しかし、大学2年生の冬に東日本大震災があり、地元への想いは募った。

震災後に母校の高校へ行った時のこと。恩師である監督が翌年引退するという。教員免許は取得していたが、教員になろうという想いはなかった。ただ、ライフル射撃という特殊な部活は指導者がいないとすぐに廃れる。ましてや、その年は母校が震災を乗り越えてインターハイ優勝を成し遂げた年だった。「私にやれる事」、それが母校のライフル射撃部を指導することだった。

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私が母校でライフル射撃の指導を始めた年の夏、インターハイ2連覇を達成。私の中で射撃に対する意欲はピークだった。そんな時、同年の9月、《お も て な し》で話題にもなった2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催が決定した。
私の中で、「7年後のオリンピック、誰よりも近いところで教え子たちの活躍をみたい」という気持ちが湧き、それは同時に目標になった。

まずは国内の審判資格などを取るところから始めた。
オリンピック・パラリンピックへ参加するための準備を進めていく中で、恩師に言われた言葉が私を大きく動かした。
「オリンピック・パラリンピックでは多くの言語が必要になる。英語以外に話せた方が有利だぞ」
その言葉を聞いてから、私が学生時代にやり残したことへの欲求がふつふつと湧いてきた。

「留学したい」
それは私が学生時代にやり残したことだった。教員免許と図書館司書の資格を取得することを選び、私が選ばなかったこと。その選択への欲求が、社会人3年目で再び湧いた。

翌年から1年間、私は海外に出た。その1年で、なんとか英語とヒンディー語を身につけて帰国。
そこから国際審判の講習と試験を受け、無事に国際審判の免許を取得した。
しかし、2020年。世界では新型コロナウイルスが猛威を振るい始める。日本も例外ではなかった。世の中がオリンピック・パラリンピックどころではない中、私は1年後の開催を信じて、ドイツ語を習得すべく勉強を始めた。じっとしていられなかった。だから、ドイツ人の友人と毎週テレビ電話をし、ドイツ語を教えてもらうことで目標への意欲を保つことができた。
その甲斐あって、1年延期の末開催されたオリンピック・パラリンピックでは、つたないながらも英語・ヒンディー語・ドイツ語で選手たちと会話することができた。

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私が学生時代に抱いていた夢は、同時通訳者と図書館司書。
現在の私は、そのどちらの職業にも程遠い。しかし、「職業」という枠にとらわれなければ、私は夢を1つ叶えた。次はどんな形で夢を叶えよう。

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―「明星大学卒業生の今とあの頃」は2~3週間に1度のペースで更新予定です。様々な卒業生が登場しますのでお楽しみに!―